戦国時代?〜2 戦国大名がぞくぞくと
前回からの続き
応仁の乱で室町幕府が中央政権として力を失ったことで、全国各地にさまざま勢力が立上り、戦国大名が続々と登場する「戦国時代」が始まります。
各地に戦国大名が登場
室町幕府下では、地方の領主は室町幕府から任命された守護でした。
しかし、室町幕府の権威がなくなったことで、守護も権威を失い
⇒力の強いものが強い(下剋上の風潮)⇒守護代や国人(その地方の武士)が、自らの力で領地を切り取り「戦国大名」になっていきます。
戦国大名の出自は、主に次のような勢力がなりました。
1540年代後半の情勢
下図は、1540年代後半の全国各地の主な戦国大名の図です。主な勢力しか書いていませんが、さまざまな勢力が各地に台頭します。
⇒以降は、各地で様々な武将が戦国大名となっていく過程を紹介します。
1北条氏(北条早雲)
北条氏の創設は、浪人から奇跡的活躍で戦国大名となった、という伝説的な話がありましたが、現在は、否定されています。
今川家家臣として領主に
北条早雲は、伊勢盛時という名で、室町幕府の家臣の名門家の出身でした。妹が駿河(静岡県)の守護・今川家に嫁いでいた関係から、今川家の家督相続に関与し、その功績から今川家の家臣として現在の沼津市付近に領地を得ます(1487年)。
歴史人物は名前が、その時々で変わるのでややこしく、後に出家し「早雲庵宗瑞」と名乗ったことから、早雲と呼ばれます。また、北条という姓は、早雲の子の2代氏綱の時に関東地方の武士になじみのある、鎌倉幕府の要職であった北条氏を名のり北条氏となります。
伊豆一国の領主に
早雲はその後、室町幕府の足利家の一門の堀越公方家(足利氏)を倒し、伊豆一国を手に入れます(1493年)。
小田原を拠点に関東へます。
早雲は、さらに小田原城を攻略し、小田原を拠点に相模の国を攻略(1516年)。家督を北条氏綱に家督を譲り(1518年)ます。
北条家は5代にわたり小田原を拠点として、関東地方で勢力を広げた大名となります。
2 今川氏(今川氏親→義元)
今川氏親により戦国大名化
今川氏親は、叔父(母の兄)である北条早雲の助けで後継者争いに勝利し、今川家の当主となり(1487年)、戦国大名化を進めます。
今川氏親は、領地拡大を進め、駿河から西へ進出し、遠江(静岡県の東部)を支配下にします(1517)。また、領国支配のための法令(「今川仮名目録」)を制定します(1526年)。
今川義元、三河・松平氏を支配下に
今川氏親の死後、長男・氏輝が跡を継ぐも急死。後継者争いが起こり(花倉の乱(1536年))、義元が勝利します。
義元は、駿河の北に位置する甲斐の大名・武田信虎の娘を正室に迎え武田氏と同盟を結びます。武田氏との同盟で、北条氏と関係が悪化し、領土の東側では、北条氏が侵攻し対応にあたることになりましたが、西側では、氏親の代より侵攻していた三河・松平氏を攻略し、三河を支配下に起き、領地拡大をおこないました。
3 武田氏(武田信虎)
信玄の父・信虎が国内統一
武田氏は、武田信玄が有名。その一代前、武田信玄の父・信虎が14歳で家督を相続(1507年)。
武田家は、鎌倉時代から続く名門家ですが、国内は一族で勢力争いをしている状況でした。武田信虎は、国内の主導権争いに勝利し、甲斐の国を統一し、戦国大名へ。
国内統一後、隣接する信濃(長野県)へと勢力を伸ばしますが、失敗します。
信虎の娘が今川義元に嫁ぎ同盟
武田信虎は、娘を今川義元の正室として嫁がせ、今川家と同盟を結びます(1537年)。
信玄、父を追放し、当主に
武田信虎の嫡男・晴信は、後に出家して信玄と名乗ります。
信玄は、父・信虎が娘婿にあたる今川義元のところへ出かけている隙をついてクーデターを起こし、武田家の当主となります(1540年)。
信濃を制圧、村上氏は越後へ逃亡
信玄は信濃攻略し、信濃の各地を制圧し、北信濃の村上義清と争い苦戦するも、村上氏の居城を攻略し、村上義清は越後へ逃亡します(1553)。
まとめ
以上を整理すると、上記図のようになります。北条・今川・武田は領地が隣り合っていることから、時に衝突したり、同盟を結んだりしながら、戦国時代の大大名となっていきます。
なお、武田氏と北条氏の領土拡大により、越後へ逃亡した武将が上杉謙信を頼ったため、上杉謙信が信濃や関東に南下し、衝突が起こります。それはまた別記事で。
次の記事では、京都付近や中国地方の状況をまとめます。